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日本マクドナルド創業50周年:外食産業の雄の光と影 | nippon.com

日本マクドナルドは2021年、創業50周年を迎えた。同社はコロナ禍が外食産業を直撃する中、巣ごもり需要の追い風に乗り、2020年12月期連結決算で全店舗売上高5892億円、営業利益312億円と過去最高を更新。その勢いは増すばかりだ。同社の草創期を知るジーン・中園氏と共に、半世紀にわたる日本マクドナルドの歩みを振り返る。

1号店は銀座・三越に誕生

いまや日本中いたるところで目にするマクドナルド。その記念すべき1号店は1971年7月20日、銀座三越に誕生した。

当時大学生だったジーン・中園氏はその2年後、日本マクドナルドに入社する。

「私が日本マクドナルドに入社したのは、志望していたマスコミにすべて落ちてしまったから。じゃあ、どこを受けようかと思案していたところ、学生課にマクドナルドの求人票があったので受けることにしました。マクドナルドのことは知っていました。というのも学生時代、自転車でアメリカを横断旅行した際、多くの街でマクドナルドの店を目にし、立ち寄ったことがありましたから」

当時は銀座三越の1号店が話題になり、その後、新宿二幸(現・新宿アルタ)などに店舗を増やしていたものの、日本ではまだ知る人ぞ知る存在。ハンバーガー自体も、市民権を得ていなかった。

「マクドナルドは店舗が基本。私も入社早々、大阪の梅田阪神店や神戸三宮店で働きましたが、三宮などは繁華街にも関わらずお客様が全然来ない。ほとんどの人が“マクドナルドってなに?”という状況でした」

だが店がにぎわうようになるまで、さほど時間はかからなかった。

「当時、マクドナルドは若くておしゃれな女性を採用していて、彼女たちのテキパキした仕事ぶりが魅力的に見えたようです。徐々に若い女性客が集まり始め、引っ張られるようにして男性客も増えていきました」

世界最高記録を達成した沖縄店の売上

入社して5年も経つと、日本マクドナルドは“急成長期”に突入。76年にオープンした沖縄県浦添市・牧港店で店長を任された中園氏は、驚異的な売り上げを打ち立てた。

「本土返還から4年後の沖縄にはアメリカ軍属の方が約20万人もいて、店の予定地に《McDonald’s opening soon》と看板を立てると、毎日のようにアメリカ人がやって来て、“いつオープンするんだ”と訊かれました。2月1日のグランドオープンでは大行列ができ、開店時間を前倒しすることに。それからはもう、信じられないほどの客足で大混乱です。結局、この日の売り上げは300万円以上。マクドナルドのグランドオープン売上世界記録を打ち立てました。大盛況はしばらく続き、デイリーに続いて、ウィークリー、マンスリーでも世界記録を樹立することになりました」

1982年、日本マクドナルドは年間外食売上、日本一となる。この目覚ましい躍進は、創業者である藤田田(でん)氏を抜きにして語ることはできない。

「とにかくエネルギッシュな人でした。80年代、マクドナルドは毎週1、2店舗、どこかで出店していましたが、藤田さんはすべての場所を下見して、グランドオープンのテープカットに必ず駆けつけていました。加えて近隣の店にも足を運び、隅から隅まで店舗の内外をチェックするわけです。それで少しでも不具合があると、ものすごいカミナリを落とす。とにかく怖い人でしたが、ビジネスへの意識は当時の経営者の中で抜きん出ていたと思います」

大躍進を支えた藤田田社長の手腕

外食王として一躍時代の寵児となった藤田氏は、『頭の悪い奴は損をする ユダヤ流・金戦の哲学』、『ユダヤ流金持ちラッパの吹き方 なぜ俺だけが儲かるのか』といった著書も出し、一部で「金の亡者」と揶揄(やゆ)された。だが、その仕事ぶりを間近で見ていた中園氏の印象は、少し異なる。

「たしかに“銭や銭や”という部分はありましたが、藤田さんのことをひと言で言えば、“浪花節を語るコンピュータ”になるかと」

儲けるためには、人を動かさなければならない。そのために藤田氏が重んじたのが、義理人情と報酬だったと中園氏は回想する。その中でもとりわけ藤田氏が気にかけたのが、従業員の家庭だった。

「藤田社長の時代、会社では7月と12月のボーナスに加えて、3月にも“決算ボーナス”というものを出していたことがあります。その決算ボーナスは社員ではなく、その妻に支払われました。その理由は、妻に“もっとがんばって働いてもらおう”と従業員である夫の尻を叩いてもらうためです」

決算ボーナスだけではない。藤田氏は従業員の妻が誕生日を迎えるたびに、フラワーショップに手配して花を贈っていた。

「それも切り花ではなく、鉢植えの花を。1年くらいはもちますから、花を見るたびに妻が“がんばって働きなさいよ”と夫の尻を叩いてくれる。妻に配慮することで、藤田さんは従業員のモチベーションを高めていたわけです」

日本マクドナルドがジャスダック市場に株式を上場。上場セレモニーでマスコットのドナルドと「株券」を披露する同社の藤田田社長(東京・中央区の証券会館)2001年07月26日 時事
日本マクドナルドがジャスダック市場に株式を上場。上場セレモニーでマスコットのドナルドと「株券」を披露する同社の藤田田社長(東京・中央区の証券会館)2001年07月26日 時事

入社してから10年間、全国各地の店舗勤務を経て中園氏は、藤田氏が勤務する東京新宿の本社に勤めることになったが、今でも忘れられない出来事があるという。

あるときトイレに行くと、あとから藤田氏が入ってきた。そのとき藤田氏は中園氏を見て、何気なくこういったのだ。

「おお、中園くん。もうそろそろ、お嬢さんは小学校かな?」

「藤田さんの言う通り、私の娘は翌年、小学校入学を控えていました。私は驚きました。というのも、社員の家族構成などが頭に入っていなければ、こういう言葉はとっさには出てこないからです。社長はいつも社員のことを気にかけているんだなと改めて思い、“この人の下では、しっかりと働かなきゃいけない”と気を引き締めたものです」

圧倒的なカリスマ性と研ぎ澄まされた経営感覚を備えた藤田氏のもと、日本マクドナルドは急成長を遂げ、日本の食文化をも大きく変えた。かつて「そんなものは売れるわけがない」と言われたハンバーガーを、多くの人が日常的に口にするようになっていた。

安売り路線の行きづまりで赤字決算に

中園氏は1990年に日本マクドナルドを退社するが、彼が勤めた73年から90年は、50年の歴史の中でも拡大期にあたる。77年にはドライブスルーが登場。87年にはハンバーガーと共にポテトとドリンクを購入すると安くなる「サンキューセット」がヒットし、流行語となった。90年には山形県1号店がオープンし、全都道府県進出を達成する。

だがバブル景気が終息し、デフレ経済に移行すると、勢いに陰りが見え始めた。2000年には「平日半額セール」を開始。かつて210円だったハンバーガーを65円で売り出したことで、不景気によって小遣いが減った40代前後の世代がふたたびマクドナルドに足を運ぶようになった。こうした動きは価格破壊の呼び水となり、マクドナルドは「デフレの勝ち組」と呼ばれるようになる。

しかし、勝ち組でいられる日々は長くは続かなかった。

02年には落ち込んだ客単価を回復させようと、半額セールを打ち切り。これが消費者の反発を招いたこともあって創業以来初の赤字決算に。藤田氏は社長を退任し、会長に就任したが、翌03年3月の株主総会後に会長を退任。04年4月21日に心不全により亡くなった。

50年の歴史の中で、日本マクドナルドは二度の大きな経営危機に見舞われている。一度目は前述した1990年代半ばから2002年にかけて。急拡大した店舗の老朽化が進み、これに低価格路線も輪をかけてブランドイメージが失墜。02年には店舗数が国内ピークとなる3891店に達したが、7年連続前年対比既存店売上高がマイナスとなった。

鶏肉偽装事件で地に落ちた信用

ここから日本マクドナルドは緩やかに回復するが、10年からふたたび下降線をたどり、14年には最大の危機を迎える。いわゆる「鶏肉偽装」事件。チキンナゲットの原料を取り引きする中国の業者が期限を偽っていたことが発覚したのだ。当時の社長、サラ・カサノバ氏(現・会長)の「取引先にだまされた」という趣旨の発言が“炎上”し、日本マクドナルドの信頼は失墜することになった。

退社後、豪州に渡り、同国のマクドナルドにも関わってきた中園氏が、外から見た日本マクドナルドの印象をこう語る。

「たまに帰国してマクドナルドに行くことがありましたが、2005年以降になると、ひと言でいえば汚い。お客様が帰った後のテーブルに、食べ残しのトレイが放置されている。テーブルの下にはゴミが落ちたまま。これはひどいなと思いました。藤田さんが創業時から大切にしてきた、“QSC”が損なわれていたんです」

“QSC”とは、クオリティ(品質)、サービス、クレンリネス(清潔さ)の頭文字。ジーン氏ら従業員は、藤田氏から徹底的に叩き込まれた。

「例えば清潔さで言えば、藤田さんはどんなに多忙でも多くの店舗に足を運び、それこそ舐めるように店舗の内外をチェックしていました。また店舗をオープンしたら、5年以内に内装を新しくするというルールも義務づけていました。それだけ清潔さにこだわっていたわけです」

驚異のV字回復を果たしたのは原点回帰

日本マクドナルドは二度の危機を脱し、鶏肉偽装による落ち込みから現在への驚異のV字回復を果たすが、それをもたらしたのが原点回帰、QSCの徹底だった。

「失地回復」に努めるカサノバ社長は従業員にサービスの大切さを徹底して教育し、金融機関からの融資によって老朽化した店舗を一斉に改装。またメニューの刷新にも努め、メディアやSNSを通じて“再生する日本マクドナルド”を積極的にアピールしたことで、顧客からの信頼回復に成功する。そして黄金の50周年を迎えることになった。

日本マクドナルドホールディングスのサラ・カサノバ社長(左、当時)と、後任となる日色保取締役 2021年02月19日、東京都新宿区の同社本社 時事(日本マクドナルド提供)
日本マクドナルドホールディングスのサラ・カサノバ社長(左、当時)と、後任となる日色保取締役 2021年02月19日、東京都新宿区の同社本社 時事(日本マクドナルド提供)

数々の危機を乗り越え、外食業界の雄として50周年を迎えた古巣について、中園氏は感慨深げにこう語る。

「商売には30年説があり、“30年もったら大したもんだ”と言われますが、日本マクドナルドは50年ももった。素直にすごいと思います。この成功はやはり、ビジネスを熟知し、QSC+V(ヴァリュー=価値)を掲げた藤田田という天才、イノベーターの存在が大きいと思います」

「私が入社したころ、世間では飲食業といえば板前さんのような職人の世界だと思われていました。でも藤田さんは、“これからの飲食は数字だ、大卒バリバリの人間がやるものだ”と言って、大卒を大量に採用した。こうした先見性は正しかったわけです。これからもがんばって、100年目を迎えてほしい。そうなったら、私は天国から盛大にお祝いします(笑)」

【日本マクドナルド50年の歩み】

行列ができるほど賑わう都内のマクドナルド店 撮影:筆者
行列ができるほど賑わう都内のマクドナルド店 撮影:筆者

バナー写真:1971年7月20日、銀座(東京・中央区)三越内にオープンした日本マクドナルドの1号店 時事

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